明楽さん、高野さんとともに、北前船出前授業 「北前船と石狩・小樽」
         2月5日 花川北中学校

 

 

 北前船の歴史を地域振興に生かす団体「北海道北前船プロジェクト」の主催で、北前船の歴史を学ぶ「北前船出前授業」を、2月5日、花川北中学校で行いました。

 講師は全国団体「現代版北前船プロジェクト」(札幌)の代表でチェンバロ奏者の明楽みゆきさん、小樽商科大学の学術研究員高野宏康さん、石狩市郷土研究会事務局長の石黒です。

 約j160名の1.2年生は、明楽さんの美しいチェンバロに聴き入るとともに、北前船の歴史に思いを馳せてくれました。

 当日は、完成間近い「北前船ジオラマ」を会場に持ち込み、それを通して北前船の特徴や役割を話しました。生徒はジオラマに「すべてが再現されていて、昔の物語を見るようで感動しました」と感想を書いてくれました。

 協力してくださった橋詰校長先生はじめ、関係者の皆さまありがとうございました。

 

講義2 北前船が毎年厚田にやってきたのはなぜか(ジオラマの見どころから)

  出前授業では 講義1として小樽商大の高野先生が「北前船とは何か、北海道からみた北前船の意義、北前船を活かしたまちづくり」についてお話をされました。

 その後講義2として、石黒が石狩・厚田にと北前船について、ジオラマを通して説明しました。
 その内容をご紹介します・


初めに

 ご紹介していただいた石黒と申します。
 人形作家の八田美津さんとコンビを組んで今までにいろいろな作品を作ってきました。
 今日、持ってきたのは、パンフレットを配った石狩市の厚田に4月にオープンする道の駅に展示する作品です。

 
 今、一生懸命作っていてもう少しで完成するところです。

 この船は、高野先生が詳しく説明してくださったように、北前船といいます。
 
 道の駅がオープンする厚田には、毎年、夏になるとたくさんの北前船がやってきました。
そのわけを皆さんと一緒に、作品を見ながら考えていきたいと思います。

 

1. 作品の時代

  北前船は、おもに、江戸時代から明治時代に活躍した船です。

 このジオラマは、長栄丸というこの船が初めて航海した今から130年くらい前の明治25年(1892年)を想定しています。

 

2. 作品の舞台

  舞台は、厚田古潭のオショロコツ湾(今の押琴湾)です。アイヌ語で尻餅をついたところという意味です。
 これは、昔の地図です。こちらが航空写真です。

  この湾には弁天そりと中瀬という沖に突き出した2本の岩礁があり、天然の防波堤の役割を果たしていました。30艘もの北前船が入港できたといわれています。

 ジオラマで、北前船が入港しているところと岬の手前がオショロコツ湾を表しています。
皆さんから見て岬の右側は、北前船が運んできた荷物を降ろしているところで、岬の左側は、北前船に積み込む荷物を出荷しているところです。


3. 鰊場

  鰊場の様子から見ていきましょう。
 たくさん俵があります。


 拡大します。なんと書いてあるか見てみましょう。昔の字ですが、「鰊」と書いてあります。もう一つの字は「粕」です。大きな釜で、鰊をゆでて、角胴という道具で油や水分を絞ってから、乾燥させて製品にします。

何に使ったか。三択のクイズに答えてください。
 A かまぼこの原料
 B 動物のえさ
 C 畑にまく肥料

正解は、Cの肥料です。

 近畿や瀬戸内、北陸などで、木綿、菜種、藍、桑(絹に必要)などの商品作物の栽培に欠かすことができない肥料として販売されました。以前は瀬戸内海や関東のいわしを肥料にしていましたが、いわしがとれなくなった後、北海道の鰊が使われるようになったのです。木綿などの作物は、動物性の肥料を使わないと育たなかったため、高い値段で取り引きされました。明治時代、繊維産業は日本の工業の中心でしたから、北海道の鰊が日本の近代産業を支えたといっても間違いではありません。

 

 厚田は鰊の好漁場でした。
 厚田神社に鰊豊漁記念碑が立っていて「明治24年に厚田で5万石(7,500トン)」の鰊がとれたと書かれています。

 
  この売上高を今のお金にすると、約37億円(37.5億円)になります。
(生から生産物の歩留まり7割、鰊粕1石=7円、明治の1円は現在の15,000円、土屋先生の換算)
先ほど、オショロコツ湾には、30艘の北前船が入港できたと説明しました。北前船は千石船とも呼ばれていました。五万石を運ぶには50艘の千石船が必要ですが、生の鰊を製品にすると重さが減るので、このくらいの船でちょうどよかったと考えることができます。
 北海道全体では、鰊漁の最盛期の明治時代中期から後期に、鰊粕は毎年約1,000億円近い売り上げになっていました。こうした生産物があったから、北海道にそして厚田に北前船がやってきたのです。

 北前船では、その他に身欠きにしんや胴鰊、数の子、塩引鮭、魚油、昆布などの海産物も運ばれました。


4 オショロコツ湾 下り荷

 岬の右側を見てみましょう。

  こちらには、北前船で運んできた下り荷と呼ばれる品物を降ろしています。

これはお米です。
 
 明治20年代までは、北海道で米をほとんど生産することができず、北前船に頼っていました。(明治6年中山久三、稲作成功。 明治25年稲作試験場ができ、公的に稲作公認。明治35年北海道土功組合法)
 高野先生が、北前船は買い積み船ということを説明してくださいました。だから、米を積み込むのは、できるだけ北海道に近い港が有利でした。記録には「三田尻(山口県)積みの塩を新潟、酒田(山形県)で下ろして、代わりに米、越後酒、白玉、大山酒などを積んで北海道に向かった。」
米どころである越後・新潟や庄内・酒田から積み込むことが普通だったのでしょう。

 

 次は酒樽です。米から作るお酒なので、やはり本州から運んで来ました。

 醤油、味噌、塩、砂糖、酢などの生活必需品も北前船が運んできました。
当時は、醤油と味噌などの調味料も北前船に頼っていました。酢は尾道から、黒糖は沖縄産の品を大阪から運んでいたと記録に残っています。その他、買い積みを繰り返してきたという事情から、「佐渡醤油」「佐渡味噌」「輪島塩」「加賀棒茶」など、なるたけ北陸の産品をイメージできるように文字を入れています。
 お皿やお椀も運ばれました。
  布も大切な荷物でした。古着は大量に運ばれました。裂き織りという布も大切にされました。
 
 先程見てもらった鰊粕を入れる俵の素材になるのは、稲わらです。当時の北海道では米が取れないので稲わらも北前船で運んできました。

 当時の厚田の様子がこんなふうに伝えられています。
「生活必需品を積んだ船が入港するのを、この村の人達は、いわゆる宝船が入ってくるように待ちわびた。こどもたちは喜んで、はしゃぎ回った。」
そんなようすを人形で表現しています。

 お祭りのような賑わいは、獅子舞で表現しました。北前船は文化も運んできたのです。古潭の神社には、文久2年(1862年)に奉納された獅子頭が残されています。
今、厚田中学校で取り組んでいる獅子舞も富山県から伝わった文化です。

 北前船の入港は、年に1度の喜びでした。村の人々は、餅つきをして喜びを分かち合いました。
そんなにぎやかさも見てください。

 

 

 写真を見てください。お地蔵さん、神社の鳥居、神社の屋根瓦です。これも北前船で運ばれてきました。


なぜ、これらを運んで来たのか。もう一度、三択のクイズに答えてください。
 A 航海の安全を願って、お祈りの気持ちを込めて運んだ。
 B 重しとして船底に積み、船を安定させた。
 C 重たい物なので、高い値段で売れた。

正解は、Bの重しです。


 

 大時化で船が沈没することはけして珍しいことではありませんでした。少しでも船を安定させるために、重い荷物を積んだのです。

 危険な航海をして運ぶため、北前船は船主に大きな利益をもたらしました。明治30年に小樽の税務署が調べた北前船主・大家さんの所得は、今のお金にして約4億円でした。


 

お膳を囲んでいる人を見てください。苦労して荒波を乗り切ってきた船頭さんをねぎらっている大柄な人は写真も残っています。厚田の佐藤松太郎です。鰊場の大網元であるとともに、加賀の寺谷家と共同経営で「長栄丸」を運行する北前船主としても活躍し、そこで得た大きな利益を地域のために使い、尊敬されました。

 

5 船の見どころ
 
 

 

 この船はまだ完成していません。
 こんな風に人形を配置し、完成させようと作業を進めているところです。



 道の駅のオープンは、4月27日。ゴールデンウィークは混雑が予想されますので、ここにいらっしゃる皆さんには、一段落してから繰り返しお越しいただくようにお願いします。
 以上で私の話を終わらせていただきます。

 

当日のようす

↑ 体育館に並べた完成まじかの北前船ジオラマ

 

↑ 朝から生徒玄関に展示。          ↑ 明楽さん。チェンバロと北前船を説明

 

↑ ジオラマを通して説明           ↑ クイズに答えてくれる生徒たち

 

↑ トークセッションも            ↑ カメラでジオラマを拡大表示 

右から、司会の森本さん。小樽商大高野先生、北中橋詰校長、チェンバロ奏者で現代版北前船プロジェクト代表明楽さん、郷土研究会事務局長ジオラマ制作石黒隆一、ジオラマ制作石黒美香子、鎌田教育長、北中北浦教頭、郷土研究会村山会長、佐々木教育部長

 

 

                   → 2年間の作業日誌