構想、調査と設計

 白鳥番屋ジオラマが、建物が中心となったと同様に、今回のジオラマは北前船が間違いなく中心となります。
 問題は北前船のような複雑な曲線だらけの模型を作ることができるのかということです。
 全国に多くの弁財船・北前船の模型が保存されていますが、そのほとんどは、実際の船を作った船大工が船主に贈った物であり、それが神社に奉納されたり、さらに博物館に移されたりして現在に至っています。北前船の造船技術に関する資料は書籍でもWeb上でも充分とはいえず、船大工の秘伝を伝承していない者には、技術的なハードルが非常に高い状態です。
 そのほかにも、困難はたくさんあります。一つは展示スペースです。設計によると歴史スペースは、7.5m×5m。展示台は、横幅0.7mでL字型です。弁財船を置くには幅が狭いのですが、広大なスペースがあると作るものが増えすぎて対応しきれなくなるので、ちょうど使いやすい広さと割り切って構想を考えることにします。

 次は時間の不足です。道の駅オープンは平成30年春。作品の搬入は3月の予定です。資料の調査や文書の読み込みもしたいけれど、実際には展示作品の制作に追われることになりそうです。しかも、制作が本業ではないので、費やすことができる時間は限られています。
 様々な制約があるといっても、お世話になった厚田に新設されます道の駅に、作品を展示できる機会をいただいたことは望外の喜びです。全力で、作品作りに取り組んでいきたいと思います。

 

■ 展示作品の構想  

 

① When(いつ)


 ここまでは「弁財船」という厚田の伝統的な呼び名を使ってきました。広義の「弁財船」は、江戸中期から明治期まで一般的だった和船の総称です。厚田で言う狭義の「弁財船」は、買い積み船として日本海を北上してきた船であり、本来上方方面の呼び名であった「北前船」が、現在は一般的な名称として定着しています。ここからは、「北前船」という名称を中心に使っていくことにします。
 「北前船」が、石狩湾で活躍した時代を考えると、場所請負制終焉後の江戸時代後期から、明治期さらに大正までが範囲になります。
 後述する佐藤松太郎を登場させると、時代はさらに明治25年から大正7年に絞られます。

 

② Where(どこで)

 ジオラマの舞台は、冒頭で紹介した古潭の押琴湾にします。
 厚田村史には次のような記述があります。「厚田の豊川氏によると、安瀬(やそすけ)のサキ漁場には山丸佐藤氏の漁場があって、ここでは弁財は沖に錨を下ろし(「沖がかり」という)伝馬船で荷揚げ、荷積みをしていたということです。」
 古潭の押琴湾には弁天そりという沖に突き出した2本の岩礁があり、天然の防波堤の役割を果たしていました。現在の古潭港の防波堤はこの岩礁の上に築かれており、神社のあたりから今も海中に見ることができます。古潭は、手宮以北初めて現れる北前船が停泊可能な港であり、厚田の運上屋は古潭に置かれていました。冒頭に示した厚田村史の記述のように、「艫付け」といって、船尾ではありますが、船を陸地に着岸することができました。
 一方、厚田や安瀬の場合は、「沖がかり」で岸との間は伝馬船を利用していました。
限られた展示場所に作るジオラマでは、船と岸が離れ、その間に海が広がる配置は効率的ではありません。密度感のある演出のために、艫付けができた古潭をジオラマの舞台に設定することにすます。

 

③ Who(誰が)Why(なぜ)

 厚田で北前船というと、山丸佐藤松太郎がすぐに連想されます。松太郎は石狩から厚田、浜益の沿岸に99ケ所あった漁場のほとんどを所有する大網元で、当時の「ニシン漁家列伝」(長者番付)では横綱とされていました。漁場で得られた利益を海運業にも投資し、明治25(1892)年頃からは石川県の寺谷家と共同で北前船経営に関わりました。明治40年からは、北海道議会議員に選ばれています。

 

④ What(何を)How(どのように)

 何を表現するかというと、到着した北前船です。せっかくなので、架空の船ではなく、佐藤松太郎が寺谷家と共同経営で運行していた「長栄丸」を再現したいと考えました。幸い、明治25年に奉納された長栄丸の船絵馬が、石川県加賀市橋立の出水神社に残されており、その写真は厚田村史で見ることができます。
 ジオラマとしては、長栄丸だけでなく、降ろされた下り荷と積み込まれる上り荷、人々の様子を表現したいと思います。
 船から降ろし終わった下り荷は陸地に配置します。下り荷の種類は、厚田村史に紹介されている佐藤松太郎家文書や石狩町史上巻357ページ以降に記載された「庚午年・石狩郡調書」等、詳細な地域資料があるので、産地なども含め、根拠のある表現を心掛けるつもりです。
 さらに、伝馬船も表現します。荷の積み下ろしのために、北前船は自前で小船を積んできていました。古潭は艫付けしかできなかったので、側舷にある荷物の積み下ろし場所である伝馬込みと岸の間では伝馬船が活躍していたことが

想定されます。
 伝馬船の積み下ろしは帆桁をクレーンのように扱い、轆轤で上下させていました。下り荷を降ろし終えた伝馬船を船に積み込むようすを表現することにしました。
 もう一つ、地元の漁船である保津船を配置しようと考えました。1俵で90㎏にもなったという上り荷の鰊粕を厚田や浜益から運んでくる手段は、陸路が整備されていない当時は船しかありません。沈みそうになるほどの鰊粕を積んだ保津船の写真が残っているので、その雰囲気を

ジオラマの中に表現してみようと考えました。
 道の駅には、観光の拠点として、厚田まで来ていただいたお客さんの足を、さらに北に向ける役割が期待されています。鰊漁場の繁栄を紹介するために、白鳥番屋のカットモデルを作って展示する予定です。実物と鰊加工の様子を30㎞北上して見てみたいと思っていただくような工夫が課題です。合わせて、濃昼のカネシメ木村番屋の外形模型も制作、紹介する準備を進めています。

  

 

制作に当たっての調査 佐渡の復元船「白山丸」

① 事前調査・北前船の資料を探して

 今回のジオラマ模型の成否は、北前船をどこまで正確に表現できるかにかかっています。
 はまます郷土資料館の白鳥番屋模型は、実物そのものと改修時の建築図面があったために、正確に制作することができました。
 しかし、北前船の資料は不足していました。
 北前船は、松前藩の税金徴収の過酷さを逃れるため、時代と共に変則的な形態に変化していました。18世紀後期以降は、絵馬や写真を一見して、一般的な弁財船と見分けることができるほどの外見的な特徴を持つにいたりました。
 松前藩は、船の大きさを表す石高について、一般の基準とは異なり、荷済みをしたまま測る方法を用い、帆柱と交差する位置にある「腰当船梁の幅」、甲板に見える「梁の間隔」、「側舷の深さ」を元に計算して課税しました。このため、課税の基準となる帆柱の部分を狭くし、前方を極端に幅広とし、前後のそりが極端な「どんぐり」と通称されます形態を持つにいたりました。当然、航行速度などは犠牲となりました。
 一般的な弁財船は、少ないながらも側面図・平面図共に公開された資料があり、書籍等やWebから入手できました。一方、北前船の資料は不十分で、正確な平面図を入手することができませんでした。北前船の側面図と、一般的な弁財船から推定で変形させた平面図を元に、設計図を作図してみましたが、いびつさが残り納得できる図面にはなりませんでした。
 いったん制作を開始すると、相当な時間と労力を要することは明らかであり、しかも完成後の修正は不可能です。また、道の駅に展示していただく以上、多くの方の目に触れることになります。中途半端な模型は作りたくないという気持ちが強まってきました。

 

調査:最高の北前船資料は佐渡の白山丸

 北前船の平均寿命はおよそ20年といわれており、当時の実船は残っていません。
 実物大の復元船が、資料として最良であろうと考えました。 
 実物大の復元船は、これまでに全国で4艘制作されています。そのうち、大阪の時空の記念館にある「なにわ丸」は、種別が違う菱垣廻船であり、北前船の参考にはなりません。また、時空の記念館自体が閉鎖されており、調査は不可能でした。
 青森市のみちのく北方漁船博物館で建造された「みちのく丸」は、航行可能な復元船として注目されていました。しかし、みちのく北方漁船博物館が閉館した後、所有者が変わり、新たな展示方法を模索する中で、船体の老朽化が明らかになり、解体されてしいました。
気仙沼市の「気仙丸」は、東日本大震災の津波を洋上で乗り切り、奇跡の船として注目を集めました。しかし、震災からの復興の中で、保存と活用が未確定な状態にあります。
 

 4艘のうち、唯一完全な状態で保存、公開されている実物大の復元船は、佐渡市宿根木の佐渡国小木民俗博物館にある「白山丸」です。

 次のような理由から、白山丸が最善の資料と考えました。
・「白山丸」の復元に当たっては、宿根木で発見された多くの板図の中で正確な側面図・平面図と、細部の特色がわかる船絵馬が共に残る「幸栄丸」を資料としています。「白山丸」という名前は、地元宿根木で信仰される白山神社と、宿根木で最初に建造された千石船・「白山丸」からとっています。
・「幸栄丸」は、建造年が安政5年(1858)であり、船主が加賀屋市三郎、石高512石積というように由来が明らかです。
・「どんぐり型の船型」や「垣立の足洗い」など後期北前船の典型的な特色を有しています。
・総監修者を和船研究の第一人者 石井賢治氏に依頼して、正確な考証と再現が行われました。
・施行管理を日本財団と連携して海事に実績を持つTEM研究所が担当し、部材ごとの使用木材などの資料が公開されています。
・実際の施行は、4艘の復元船全てにかかわった「気仙船匠会」、棟梁は新沼留之進氏が担当しました。
・恒久的な保存を目指し、陸上で屋内保存されています。
・情熱と熱意あふれる地元「白山丸友の会」が活動しています。
・友の会による書籍「時代に帆を揚げて」と、制作記録等の動画「千石船 白山丸」が存在しています。
 公開されている写真などを見て、細部まで非常に正確であること、工法も可能な限り当時の通り再現されていることがわかりました。

 

佐渡での調査

 「白山丸に会うために佐渡に行きたい」という想いが募ってきました。11月下旬に日程の空白があったため、旅行計画を立てました。出発までの日程の余裕が少なすぎたので、一般見学者の立場でもやむを得ないと思っていましたが、市文化財課工藤課長のはからいで、佐渡市教育委員会の協力をいただくことが可能になりました。
 新潟空港からジェットフォイルに乗り継ぎ佐渡に入り、レンタカーを使って、佐渡国小木民俗博物館に到着しました。


   博物館に隣接した展示館では、佐渡市立博物館館長の高藤一郎平さんが待っていてくださいました。高藤さんは、宿根木出身で、白山丸建造に、当時小木町立だった佐渡国小木民俗博物館の学芸員としてきわめて深くかかわった方です。平成の大合併で、全島の10市町村が佐渡市になった後に市立博物館に異動し、現職に就かれています。
 白山丸と北前船全般にかかわって、熱い情熱をお持ちで、話題が尽きない方です。昼食をはさんで午後まで、説明をしていただきました。北前船の構造や工夫から、佐渡が北前船の重要な拠点となった背景としての地形的、地理的な特色や宗教にまで話題が及び、摩崖石仏が残される岩屋遺跡なども案内していただきました。
 また、白山丸友の会の石塚会長さんともじっくりとお話をさせていただく時間があり、白山丸復元の「言いだしっぺ」としての想いをお聞きすることができました。
 何よりありがたかったのは、白山丸の元となった幸栄丸の板図の赤外線写真データをいただくことができたことです。側面図だけでなく平面図を鮮明に見ることができました。
2日目の日曜日、白山丸を再訪し、写真を細部も含め、500枚以上心ゆくまで撮影しました。また、デジタル機器を駆使して、寸法や角度を計測し記録することもできました。
佐渡では、北前船時代の人々の姿が思い描けるような貴重な体験をさせていただきました。

 

 

 

 

制作の準備

 

図面の書き直し

  板図データ、写真と実測寸法をもとにCADソフトで、図面を引き直しました。シート数で約60枚、おそらく100時間程度はかかっています。どの角度から見ても、納得のいく形になりました。

 

  

 

 図面から部材表も書き出しました。部材数は215点になりました。左右で複数の部材も多いので、総数は500程度になる予定です。エクセルの表なので、材種と厚み順にソートして、同じ素材から部品を切り出していきます。

 

材料の調達


 各部の部品はできるだけ実際と同じ木材を使用することにしました。白山丸の部材ごとの樹種は、友の会発行の「時代に帆をあげて」で紹介されています。北陸で建造された北前船の一般的な構成材と同様です。

 

 

①  欅 

  強度を要する部分と外観を美しく見せたい部分には、欅が使われていました。水押、船梁、台、化粧板、寄掛、ちりなどです。20分の1の模型ではあまりはっきりした板目を見せると不自然なので、正目材を用いました。寄掛だけは、板目を見せたいので、細かな板目が見える別材を用意しました。模型でも精度と強度が出るので、欅は非常に使いやすい材料です。なお、瀬戸内の造船では、これらの部分に楠が使われていたようです。

 

②  松

 船の土台といえる航(船底材)には、松の大板が使われました。白山丸の実船では、厚み8寸(24㎝)、幅5尺(1.5m)、長さ40尺(17m)で、3材を合わせて使用しました。松を使う理由は油脂を豊富に含んで水に強いことでした。佐渡を含め北陸で造船に使われた松はアカマツでした。代用品を使うのを避けると、意外に入手が難しかったですが、苦労して入手したアカマツは、脂の乗った美しい材でした。この他、根棚、戸立、歩桁、筒、守と、一部の船梁にも松が使われました。

 

③ 杉

 船の外板である中棚、上棚やはぎつけには、杉が使われていました。外板は曲げ加工に適した材料であることが実船、模型共に重要であり、マゲワッパの素材となる杉が適しています。佐渡の杉も良材として定評があるようですが、今回は入手できなかったため、秋田杉の美しい四方正目材を入手しました。この他、帆柱と帆桁、甲板に当たる矢倉板の素材にも杉が使われています。
この四方正目材は、柱上でした。市内の坂下建具製作所さんにご協力いただき、指定した厚みの板材に挽き割っていただいきました。きわめて丁寧な仕事をしていただき感謝しています。

 

④  檜 樫

 垣立には檜が使われていました。
 垣立の部材は、寸法が非常に多様です。番屋の時には切り出していましたが、今回は、檜角材を購入することにしました。最も多用する垣柱の素材は7×4mmですが、これは当初予定していた東急ハンズでは取り扱っていませんでした。ネットで探すと、この寸法も含め多様な在庫を確保している専門店を見つけ、ここから購入することができました。
 強度が要求される舵の身木と轆轤には、樫が使われていました。

 

 材木の入手先は次の通りです。

 

・欅    ウッドショップ関口 
・杉・アカマツ  木心庵
・檜  レモン画翠 

 

 

調査の続き

 

 1月にフランスを旅行した際に、パリの国立海洋博物館を見学することができました。19世紀末にこの博物館の館長を勤めたF、E、パリスは、海軍中将として退役するまでに3度の世界一周を経験しています。日本でも多くの船を調査していますが、その一艘として1869年に函館で実測した「北の船」の図面を残しています。このことは知っていたのですが、驚いたのは、図面だけでなく、その調査にもとづいた北前船の模型が残され、展示されていたことです。パリスの図面とそれにもとづく模型には、海事の専門家でなくては気づかなかったであろう北前船の特色が見られます。
 模型の仕上げで、適切に表現していきたいと思います。

 

 

これからの課題

 厚田では道の駅の工事が着々と進んでいます。実はそのすぐそばで、大規模な工事が計画されています。厚田区内の学校を統合して、小中一貫の義務教育学校を平成32年に開校し、同時に新校舎を建設する計画です。現在、準備委員会が新しい学校の構想を協議しています。私は現在教育委員会に勤務して、この学校の開設準備にかかわっています。
 厚田は長い歴史の中で、地域と結びついた教育を進めてきた地域です。その一例が、石川県門前町との交流でした。新設校におけるふるさと教育として、北前船のジオラマ模型を活用することや、最新の通信手段等を使って姉妹都市輪島市の子ども達との交流を復活させることを、学校や関係者と協議して実現したいと考えています。
 北前船による地域繁栄の歴史が、厚田の子ども達の郷土愛として未来につながることを願いながら、当面は地道な手作業を進める予定です。