ベンチがほしい。どうせならSL型。それも千歳を走っていた「山線」を

  開校50周年記念事業の一環として、「子ども達がわくわくするような楽しい学校環境をつくろう」と、実行委員会で様々なアイデアを出し合いました。
まず、子どもが目を輝かせて学習できる活用型資料室。ちょっとさびしかった玄関ホールも大改造することになりました。
目玉は大型ベンチ。どうせつくるならSL型。それも千歳を走っていた「山線」に・・・・・。理想はとどまるところを知りません。

 

 

「山線」とは

  さて、「山線」とは、王子製紙苫小牧工場の動力として、千歳川に水力発電所を建設するために敷いた軽便鉄道です。
 明治41 年に、苫小牧~支笏湖~千歳川第一発電所の間で開通し、昭和8 年に第四発電所が建設されるまで、発電所建設のたびに千歳に向かって線路を延ばしてきたのです。苫小牧から、支笏湖までは25 キロ、第四発電所までは34 キロの運行区間でした。「山線鉄道」は、発電所を建設するための、機械、セメント、砂利、鉄材などを運ぶと共に、支笏湖周辺から、エゾマツやトドマツを製紙用材として運びました。
 支笏湖の景観が世に知られるにつれて、便乗する人が多くなったため、大正11 年からは一般客も乗車できるようになりました。ただし、乗車券の裏には「人命の危険は保障せず」と書かれていたそうです。昭和初期の案内書には、苫小牧からの道順の他に、千歳駅 で下車し、第四発電所から「山線鉄道」に乗車して支笏湖にいたる道順が紹 介されています。
戦後間もない昭和25 年に、苫小牧から支笏湖までの自動車道路が開通し、市営バスも運行されるようになりました。また、林道も整備され、原木がトラックで運ばれるようになると、「山線鉄道」の存続意義は次第にうすれていきました。
 王子製紙は、経費削減のために廃止を決め、昭和26 年8 月に「山線鉄道」は、その歴史を閉じることになったのです。
 今回、モデルにしたのは、昭和10年に小樽市の橋本鉄工所で製作された四号車です。この機関車は、廃線まで活躍した後、東京都の紙の博物館に展示されていました。平成8年に、苫小牧市民の熱心な運動で、故郷に帰ることになり、現在は苫小牧駅前の王子アカシア公園に保存されています。
 「山線」は緑小学校にとっては、校区内を千歳川に沿って走っていたふるさとの鉄道といっていい存在です。製作は歴史の再発見にもつながります。

 

現役時代の山線4号車      苫小牧に保存されている山線4号車

 

作業開始から完成まで

  実際の作業の第一歩は設計図を引くことです。苫小牧駅前の王子アカシア公園に保存されている四号車の写真を撮り、採寸しました。水タンクをボイラーの上に置くサドルタンクと呼ばれる形式や不安定な線路に対応する車軸の板バネが特徴的な機関車です。
 おやじの会の皆さんと材料の切り込みを始めました。取り寄せていた楢材にかんなをかけ、必要な寸法に加工していきます。可能な限りほぞ組を使い強度を確保しました。
 そして、約半年、火曜日と木曜日の19時から2時間。おやじの会の皆さんと作業を続け、他の作品も合わせて約1 トンの楢材を加工しました。
7月12日夜に、最後の作業を終えて完成。翌日朝の子ども達の驚きようと喜びようは、忘れることができません。
 緑小の山線機関車には、開校50 周年にちなみボイラーの正面に「50」の文字を彫りました。緑小の新しいシンボルになった「山線」ベンチの回りには子ども達の笑顔が絶えません。