鰊場の作業 3通りの加工方法 粒鰊・掛け鰊・鰊粕

 

粒鰊(鮮魚生売り)


沖揚げされた鰊は、粒鰊(鮮魚生売り)、掛け鰊(身欠き鰊や数の子などの保存食)、鰊粕(肥料)の三通りに加工されました。加工法は、鰊の大きさや質により選ばれ、市場価格のよい製品が優先されました。
鮮魚の販売(粒鰊)は、製造経費がかからず現金収入が得られたので、最も歓迎されました。はまます郷土資料館には粒鰊を沖買いする多くの船が停泊する昭和初期の写真が残されています。鮮魚として南限は新潟まで運ばれました。一部の買い付け船は石狩川を遡航し、石狩や空知の農村地帯で販売していました。
ジオラマでは海岸に、出荷を待つ縄掛けした鰊箱を配置しています。

 

 

掛け鰊(身欠き鰊・数の子)


保存食となる身欠き鰊や数の子の生産も盛んに行われました。
廊下に保管された鰊は3〜4日たつと、腹が薄くなり、数の子が固くなって加工しやすくなります。このころ、潰し手が、手でエラを外し、腹を裂き、数の子と白子を取り出します。この作業が鰊潰しです。手慣れた潰し手は、1日に1万匹の鰊を処理しました。潰した鰊は、つなぎ方の若者がつなぎつらという藁紐でまとめ、洗い鉤につるしては木架に運んで干しました。

 
木架で2〜3日、日干しした後、サバサキで尻から背骨に沿って切れ目を入れ、えらぶたを少し残した身と骨とハラスに分けます。再び2〜3週間乾燥させてから身欠き鰊になる部分を切り離して箱詰めしました。この製法を一本取りといいます。残った骨とハラスはエラとともに肥料になりました。

  
身欠き鰊は、北前船で本州まで運ばれました。京都の鰊蕎麦は当時からの伝統です。

 数の子はこまめに裏表にするテッカエシという作業をくりかえして干しました。雨天時にはすぐに倉に入れることができるよう持ち手のついた乾燥枠を使用しました。
白子は乾燥させて肥料にしました。

 

 

粕づくり(肥料)


粕にする鰊は、浜近くに置かれた大釜で煮てから、角胴と呼ばれる搾り機にかけ、水分と油を除いて粕玉にします。

 

 

 
 

 

 

 

 

 

 

 

 これを干場まで運んで、砕いて乾燥・発酵させ、俵に詰めて製品にします。油も水分と分離されて製品となり、灯油や石鹸などの原料として出荷されました。

左図上:粕作り干場仕事

左図下:粕作り浜仕事

 

 

 

 

 

 鰊粕の製造は、場所請負人の時代に始まり、建網が普及し、漁獲高が飛躍的に増大するにつれて割合を増していきました。鰊粕は北前船で運ばれ、近畿地方を中心に販売されました。綿花、菜種、藍などの商品作物に欠かせない肥料として高値で取り引きされ、基幹産業として明治期の北海道経済を支えました。