江別太 開校までの歴史 2

もう一つの歴史・・・・港として栄えた街

 

札幌方面から石狩川沿いに国道12 号線を進み、千歳川を渡って本校校区に入ると、右手に江別河川防災ステーションが見えてきます。中には外国の映画でしか見たことがないような外輪船の実物大模型が展示されています。このあたりは、かつて「港」として繁栄した意外な歴史があるのです。

 

 


 アイヌモシリと呼ばれていた時代、内陸交通の中心は河川交通でした。明治14 年に樺戸集治監が開設されると、囚人の労力で周辺の道路が開削されるようになりますが、1200 人といわれた職員と囚人の生活物資は、石狩川の水運に依存していました。

 

 


一方、明治12 年に三笠の幌内炭鉱が開鉱すると、石炭を港まで輸送する鉄道の敷設が急務となり、幌内炭鉱と小樽の手宮を結ぶ官営幌内鉄道が、日本で3 番目の鉄道として明治15 年に開通しました。

 

 
水運と鉄道が、道央圏の交通の両輪となる時代が始まりました。開拓使は明治17 年に、蒸気を動力とする官営の外輪船、神威丸を就航させ、集治監の物資輸送を担当させることになりました。外輪船は川の水深が浅くても運行でき、障害物による損傷の可能性が少ないことで河川での運行に適していました。また、強力な蒸気を動力とするため、早く大量の物資を運ぶことができました。開拓使は明治23 年に3 艘を民間に払い下げ、これにより汽船会社による定期運行が行われるようになりました。上川丸は、明治22 年に就航した全長25m、60t の石狩川最大の鉄船で、時速は8 ノット、定員は60 人でした。

 
石狩川水運と鉄道の接点は地形等の要因により、江別だけでした。江別港と江別駅との間は700m のトロッコで結ばれていました。石狩川と支流の地域から集められた農産物や木材は、江別港まで外輪船で運ばれ、江別駅で鉄道に積み替えられて大消費地である札幌や小樽に運ばれました。一方、小樽や札幌から鉄道で運ばれた生活物資は、江別港で外輪船に積み替えられて、石狩川と支流の地域の生活を支えました。物資の積み替え基地として江別港は繁栄し、市街地が整いました。右岸側には三井物産合名会社の木挽き工場が立地していました。
当時の記録から運ばれていた物資と運賃の一部を紹介します。
「上等席:75銭、並:50銭、呉服・反物一つ:33銭、昆布・干し魚1個:16銭、米・雑穀4斗入り:9銭、樽物一樽:27銭・・・」


 


明治31 年に鉄道が旭川まで延伸され、昭和元年に千歳線が開業するなど、鉄道が整備されるに伴って、外輪船が担っていた物資輸送は鉄道に奪われることになり、江別港の繁栄にも陰りが生じてきました。
汽船会社の赤字が続く中、明治35 年、石狩- 札的内(現: 浦臼町)間の航路が、北海道庁により「命令航路」に指定されました。命令航路とは、国が補助金を交付するかわりに、運航者、運航区間や寄港地、運航回数、使用船舶を指定する航路のことです。
これにより、外輪船の運行は継続することができましたが、経営の苦しさは変わらず、札沼線が開通した昭和10 年に命令航路が廃止され、外輪船は石狩川から姿を消しました。
鉄道と水運の中継基地としての江別の機能は失われ、繁栄は過去の記憶とレンガ倉庫などの遺構に残るのみになりました。港で繁栄した地域のもう一つの歴史を今日に伝える存在が、最初に紹介した江別河川防災ステーションの上川丸です。

 

江別太小学校にも上川丸と弁慶号が。